世にも奇妙な3つの『水滸伝』!?
中国には「四代奇書」という呼ばれているものがあります。
『三国志演義』、『水滸伝』、『金瓶梅』、『西遊記』の4つです。私は『三国志演義』と『水滸伝』は読破しました。『金瓶梅』と『西遊記』は挫折です。
四大奇書は中国で映像化されており、特に『三国志演義』と『水滸伝』は何度もされました。
今回紹介するのは『水滸伝』です。『水滸伝』は北宋(960年~1127年)末期を舞台に活躍する108人の義賊「梁山泊」の話。
一般庶民の間で受けが良く、戦前の日本でも『三国志演義』と並ぶほどの人気でした。小説家の吉川英治氏も『新・水滸伝』という作品を執筆していました。
しかし吉川氏が執筆中に亡くなったことで絶筆。このためなのか、日本で『水滸伝』が『三国志』ほどの知名度を誇ることはありませんでした。
ところで中国で『水滸伝』は3つの形態で人々の間に流通していたのです。今回はその件について紹介します。
1. 100回本『水滸伝』 とにかくチートを外せ!
これが中国で最初に流通した『水滸伝』です。中国では今でも当たり前のように流通しており、ドラマもこれをもとに製作しています。内容は108人が集結した後、彼らは朝廷に召し抱えられます。
その後、北方の異民族王朝である遼(916年~1125年)と戦って大勝利!
だが、ここで108人の1人である公孫勝が脱退します。この人は魔法使いのチートキャラ!梁山泊は困ったらすぐに公孫勝に頼って勝利していました。
他にもどんな病気・ケガでも治す医者の安道全、皇甫端など・・・・・・梁山泊はチートまみれです。
(マンガ 『ドクターX1』)
作者は終盤で梁山泊が苦戦するという設定にしたかったので、敢えて梁山泊最強のチートである公孫勝を脱退させました。
もちろん安道全、皇甫端も一緒に脱退。チート総崩しです。この結果、次の戦いである「方臘の乱」では梁山泊は壊滅的打撃を受けてしまい、勝利を得るも解散となったのでした。
2. 120回本『水滸伝』 横山光輝『水滸伝』のもとになった本
これは日本で受容された本です。中国では非常に受けが悪かった本でした。
遼討伐の後に「田虎の乱」、「王慶の乱」という反乱を梁山泊が鎮圧することになっています。
しかし、研究者の間ではこんな意味の無い話を作った理由が分からないそうです。そのため120回本は文学的価値が無いと言われています。
余談ですが、横谷光輝氏の『水滸伝』は120回本がもとになっています。
3. 70回本『水滸伝』 ダイジェスト版
これはダイジェストです。清(1644年~1911年)の金聖嘆が100回本、120回が長くて読むのが面倒くさいという理由から、読みやすくしてあげたものです。
現代で例えるのなら「あらすじで読む文学作品」という感じです。
これが大好評であり、100回本、120回本も忘れられるほどだったようでした。
4. どこで読める
上記で紹介したものは現在読めるのでしょうか?
70回本は絶版しましたが、100回、120回本は読めます。
ただし、大型書店に行かないと売っていません。
120回本・・・・・・駒田信二訳 平凡社(講談社文庫、ちくま文庫もあったが絶版)
70回本・・・・・・佐藤一郎訳 集英社 絶版(ネットならば入手可能です)
スピード出世がよいとは限らない
昨今は正社員という形態にこだわらずに、契約社員・派遣社員・アルバイトで生計を立てるフリーランサーが増えてきました。
私が大学の頃は会社説明会で「入社したら出世しましょう!」と学生に説明する社員が多かった。今では信じられない光景です。
今回は北宋(960年~1127年)の宰相である寇準(こうじゅん)の逸話を紹介します。
1.寇準とは?
寇準は北宋第3代皇帝真宗に仕えた宰相です。中国の官吏登用試験である「科挙」に20歳という異例の若さで合格していました。
科挙は合格が難しく、何度も落ちて合格するのが当たり前。30~40代で合格するのが平均です。20代で合格していたら天才でした。
寇準はそれを成し遂げた天才だったのです。寇準はその後、とんとん拍子に出世していき宰相・・・・・・総理大臣にまでなりました。
44歳という異例の若さでした。
2.友達から危険視される
ある日のこと、四川の長官である張詠(ちょうえい)は寇準が宰相になったことを聞きました。
張詠は寇準の友達でした。才能はあったのですが、誰にでもズケズケとものを言う性格だったので、出世コースから外れていました。
寇準の出世を聞いた張詠は「寇準は才能にあふれているのだが、民を幸せにすることは出来ない」と呟きます。
「それはどういう意味ですか?」と、近くにいた張詠の弟子が理由を尋ねました。
「若すぎるからだよ」と寇準は言いました。
張詠によると寇準は昔から凡人が努力して成し遂げることを、少ししゃべる程度で片付ける癖があったようでした。要領が良すぎたのです。
仕事は苦労しながら年月をかけて、色々なことを習得していくもの。しかし寇準はその苦労も勉強するヒマも無く、才能だけで生きていることを張詠は危険視したのです。
寇準はその後、北宋と契丹と間で結ばれた「澶淵の盟」を成功させたことで皇帝からの信頼が一層厚くなりましたが、最後は自分が腹心として頼みにしていた丁謂により失脚させられました。
やはり才能だけで生きていたので人物を見抜く力を養うことは出来なかったのでしょう・・・・・・
会社に勤めている若い読者の皆様も、スピード出世は少し考えなおしておきましょうか。